
洛北、鷹峯三⼭の裾野に釈迦⾕と呼ばれる集落があります。⼈家と接する鬱蒼とした窪地の森に忽然と現れる池は、今のところ「新池」と地図に記されていますが、まるで古代からそこにあったかのように、ひそやかに満々たる⽔をたたえ、ほんの時折、⽔深5mの池底から湧き出す地下⽔が波紋を広げます。池のほとりでは、春には桜と⼭躑躅、初夏には⻩菖蒲、秋には紅葉が⽬を楽しませ、冬には
コガモやサギが舞い降り、崖を覆うシダは⻘緑の葉を⼀年中茂らせています。この池を取り囲む⾃然豊かな場所を「光ノ庭」と名付けて、持続的に環境を守り、その価値を皆さんと共有し、創造・交流する場にしていきたいと考えています。
その思いへと⾄った理由を理解していただくために、池の昔ばなしを少しばかりいたします。
霊なる池
池のあるあたりは平安時代から代々の天皇の御⾺のまぐさを⽣やし、貴族たちが狩猟や鷹狩に興じた場所でした。霧が⽴ち込める神秘的な池には、⽩⾺に乗った仙⼈が舞い降りたという逸話も伝わっています。この「⽩⾺池」は江⼾時代に消えてしまいますが、明治になってから再び掘り起こされて農作のための灌漑池となり、これを「新池」と呼んで今に⾄ります。
癒しの園
「新池」のすぐ北東に位置する⼭は、最澄が⼭上に薬師如来を安置して以来「薬師⼭」と呼ばれています。病を癒し、⼼⾝の健康をもたらす仏に守られた場所でした。江⼾初期の御典医・野間⽞琢は薬師⼭で薬草を栽培していたことも記録に残っており、その⽞琢の廟所は「新池」の南隣に残されています。また同じ頃、禁裏の御典医・藤林道寿綱久によって「新池」から1㎞ほど南下した場所に「鷹
ヶ峰御薬園」が設⽴され、明治期まで9代にわたり管理されていました。このあたりは古来、医療の最先端をゆく⼟地でもありました。
芸術の郷
近世初頭、⼑剣の⽬利きであり能筆家、漆芸や陶芸にも秀でた芸術家・本阿弥光悦は幕府より鷹峯の地を拝領し、ここに⼀族や職⼈たちと共に移り住んで芸術村を開きました。アートプロデューサーの役を担う光悦のもとにさまざまな分野の職⼯や⽂化⼈、町衆たちが集まって⽣み出された⼯芸品や書画は、のちに琳派と呼ばれるようになりました。美しいものを協働してつくり出す、クリエイティブ
集団の理想郷がここにあったのです。光悦の屋敷跡である光悦寺は「新池」の南側、歩いて10分ほどの近さです。
学びの舎
昭和期に⼊ると、「新池」周辺は実業家・華垣太⼼により⼤規模な開拓が⾏われ、「釈迦⾕荘園」が誕⽣します。「釈迦⾕荘園」では別荘分譲や貸し農園のほか、「太⼼學」という実践処世を学ぶ道場が開かれました。⼈々が集い、畑仕事に汗を流したり、学びを得たりすることで⼼の憂さを晴らす、⼀種のコミュニティサロンがかつてこの地にあったのです。また「新池」の南に隣接する常照寺は京都六檀林の⼀つで、往時は数百⼈の法華僧が⽣活し修⾏する学問所でした。
光ノ庭のこれから
こうして歴史をひもとくと、この池とその周辺は単に⾵光明媚というだけではなく、太古から⼭や⽔のエネルギーがみなぎり、循環し、そのエネルギーにあやかるようにして⼈は⾃然に遊び、ときに霊気を感じ、⼼⾝を快復し、アートを創造し、共に学んできた、そういう特別な場所であったことを感じずにはいられません。万物の源である⽔。⼭肌をつたう⽔が三⽅向から流れ込み、さらに地中から湧き出ずる地下⽔をも抱きこみながらやがて鴨川へとめぐるまでの溜まり池。その鏡のように光り輝く⽔⾯を⾒つめるとき、この貴重な環境が壊されることなく未来へ継承されるとともに、何らかの⽂化的活動や語らいの拠点となって、その「知」や「美」のきらめきが周りの⼈たちや社会に照り返されることを願っています。
